ども。コモノです。
今日もゲムマに行けなかった悲しみを抱き締めてエックスのタイムラインを眺めておりました。そうしたらどなたのポストだったか見つけられなくなっちゃったんだけど”価値の変化”について疑問を呈していたユーザーさんがいたのです。
ほう、価値とな。。。
その時はゆっくり見返すことができずに流してしまって後で見返そうと思った時には見つけられなくなっちゃったんですが、なんとなく心に引っかかった”価値の変化”という考え方について。そういえばボドゲの価値って「面白いゲーム」って事なんだよね...?と思ってしまったら、この「価値=面白さ?」ということについてあれこれ考えてしまって止まらなくなってしまいました。ふと考えてみると人によって感じ方が1番違うだろうこの「面白さ」についてコレまであまり考えずに使ってきたよな?って思ったのです。何かに目覚めようとしてもしかしたらまた寝ちゃうかもしれないボドゲコラム、本日はボドゲの価値は「面白い」ことなのか?という漠然たる考えについてまとめます。ニーズ、、、あるけ?
価値について専門家(AIさん)に聞いてみた
そもそもの大元である「価値」とはどういうものなのか、その言葉の定義について最近流行りのAIさん(あたしに比べれば専門家)に聞いてみました。何はともあれ「今更それ聞く?」とか「前提は?」みたいな事言われないで回答をもらえるというのはAIの良い所です。ふわっとされるとこの後の考えが安定しないので、以下のように聞いてみました。
Q:「普遍的価値」とは何か
「普遍的」とは、時代や場所、文化を超えて広く当てはまることを意味します。世界遺産の分野では「顕著な普遍的価値(OUV)」という用語があり、「どの時代でもどんな人でも価値を感じるもの」と定義されています。
国際社会や哲学では「自由」「平等」「人権」などが普遍的価値とみなされることが多いですが、これらの価値も歴史的には特定の地域(例:西欧)から発展し、徐々に世界に広まった経緯があります。
なるほどー。で、以下のようにAIの回答は続きます。
普遍的価値の成立と限界
「普遍的価値」は、誕生した瞬間から全世界で通用したわけではなく、概念自体が「旅」をし、他文化との接触や議論を経て普遍性を獲得してきました。たとえば人権の概念も、最初は一部の人々にしか認められていませんでしたが、歴史的な変化や国際的合意を経て、より広く受け入れられるようになっています。
価値観や道徳観は、時代や社会状況によって評価が変わることもあり、「普遍的」とされるものも絶対的ではありません。
文化・宗教・歴史による違い
「優しさ」「誠実さ」「思いやり」などは多くの文化で重要視されるため、比較的普遍的な価値とされやすいですが、それでも表現や重視の度合いは文化や宗教によって異なります。「普遍的価値」は、あくまで「多くの人が共有しやすい価値」であり、全人類が完全に同意する価値とは限りません。
どこかそう言ったことを書いてあるサイトから持ってきたっぽい表現が含まれていますが、少なくともこう言ったことを真面目に考えた方たちのおおよその認識は理解できました。この後政治的、宗教的なバックボーンについてもう少し説明が続きましたが割愛します。
一度遊んで面白かったらずっと面白い...だろうか?(デューンは最高である)
で、追加で質問をしてみました。価値ってその時々だったり人によったり自分自身の感じ方が変化した際にその評価が変わることがあるなと思ったからです。
Q:ある価値を100とした場合、以前よりも80に感じる(感じてるだけ)場合、価値そのものが社会的な理由で変化したというより、価値を内包する社会秩序や人々の環境に対する考え方が変化した、と考える方が適切?
イケてるのかイケてないのかギリギリの線を攻めた質問です。そしてその回答がコチラ。中略とした部分には結論のための詳細は例示があったのですが長いので省略しました。
ある価値が100から80に相対的に低下したと感じられる場合、「価値そのものの変化」というより「社会環境や人々の認識枠組みの変化」が主因と考える方が適切です。この結論は、価値観の動的性質と社会的文脈の影響に関する研究から導かれます。
〜中略〜
結論
数値的な低下(100→80)は、価値の本質的変化ではなく、以下の要因による「価値評価フレームの再構築」と解釈するのが適切です:
・社会構造の変化(少子高齢化、技術革新など)
・集団的認識の更新(SDGsへの対応など)
・個人の感情的経験の蓄積
このプロセスは、価値観が「静的な物差し」ではなく「環境と相互作用する動的システム」であることを示しています
AIさんの回答を読んで考えてみると、ボードゲームの面白さを価値として認識した場合、その価値は普遍的なものではなく変化するものになりえるということが示唆されました。コンポーネントの豪華さとかイラストの素晴らしさとかそういうものは価値を構成する要素であり、ボードゲームにおいてそれ単体は価値であると見なさない方が適切ということになるかと思います。いつも見た目や質感、デラックスなコンポーネントで気分が上がっちゃうタイプですがそれだけで「ボードゲームが面白い」と言うことにはなり得ないということですね。
いや、なるのかもしれない...かもしれない。(大鎌戦役は最高です)
つまりボドゲの価値とは?
表題にした「面白い!楽しい!」という表現がボドゲの価値を表現しているとするならば、その表現は少なくとも書いている私の(普遍的な)感覚としては正しい。しかし読み手の方にとっても同じように普遍的であるかは、読む人によって異なる感想となり得ることがよくわかりました。まぁそうよね、そういうもんだよね、、という感想です。
アンモナイトと三葉虫だから面白かった!訳ではありません(ダーウィンズ・ジャーニー)
つまり「面白かった!」という感想は当ブログも含めて世に溢れていますが、それらは必ずしも読んでくださっている全ての方に当てはまるものではなく、また発信者が読んで欲しいなぁと思ってる方と同じである保証もなく、むしろ全く想定していなかったユーザーの方にめっちゃ刺さるかもしれないくらいには幅の広いものだって事ですね。
結論
ブログを書いてると本当にごく稀に「騙された」とか「当てにならない」とか言われたりします。今までは「なんかすんません...」と思ってましたが、上記のようにそもそも面白さは人によって感じ方が異なる性質のものなので、勝手に「信じた」り勝手に「当てにされた」ていただけなのです。あらためて客観的に説明がつくと今後はネガティブな言動も然程気にならなくなるかもしれません。
これはブログに限らず、何かしら作って誰かに届けている方には起きうる話です。相手がどんな専門家でもまったくの門外漢でも「面白い・つまらない」の感想を言うのは自由ですし、何もなかったことになる(要は存在を知られてない)よりずっとマシな気がしてきました。誰かに読んで欲しくて書いてるので、その方がきっとずっとマシなのです。ただし誹謗中傷は別。これはかなり辛いものがあるので、自分も何か考えを発信する時には「批判」を超えた中傷表現とならないよう気をつけたいと思いました。
あまりブログで批判的なことを書かないのも自分が潜在的にとても批判的な考えを持ちやすいという自覚があるからなのですが、それよりも他人の批判に安易に同調することがとても無責任に思えてしまうからでもあります。良い意見も悪い意見も、誰も周囲でそう言う意見がなくとも同じ主張が出来るか?それを今後も意識しながらワーキャー言いながらブログ書いていこうと思いました。
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